「報道」を疑ってみるのも良いと思うよ。

 1度だけですが「なんでそんなに日本が嫌いなの?なんで自分の国に誇りを持てないの?」と言われた事があります。なぜそんな質問をされるのか良く分からず、逆に、相手になぜ日本に誇りを持つのか聞くと、「自分の国なんだから当たり前でしょう」という返事。オリンピックの「がんばれ!日本」じゃあるまいに。。。最近の「ちゃんと日本を見直そう運動」は、「悪い所は目をつぶって」と前置きがついているように思います。
 ぶつぶつと文句の多い私ですが、実のところ日本大好きです。日本人で本当に良かったと思っているし、(悪いところはあるけど)誇りです。ただ、私が日本人である事を誇りに思うのと同じレベルで、他国の人がその国の国民である事を尊重すべきだと思っているだけなのですが、そう言った発言が自国より他国を尊重しているように聞こえるのでしょうね。

 そう言った意味で特に顕著なのが、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)(と、ちゃんと表記する番組減りましたよね。。。以前はちゃんとどこの局もやってたのに。)に関する発言をした人への対応です。2000年8月、私は北朝鮮を取材をする機会がありました。当時はそんなに知られていませんでしたが、あの「万景峰92」に乗船しての入国です。元山から入国して、平壌板門店などを訪れました。ほんの4日ほどの滞在で、あの国の何が分かるものでもありませんが、逆に見えて来たのは「日本」でした。日本の報道の限界と恐ろしさを感じました。もちろん、基本的には日本のマスコミは嘘を言っているわけではありませんし、情報というのは編集者によって切り取られ編集されるものですので、どこかに主観、視点は入ります。ですが、日本の報道はあまりにも一面的、断定的、そして画一的すぎるのです。
 マスコミが流す北朝鮮の情報は何を根拠にしているか、私はそれまで考える事はありませんでした。当時聞いた某新聞記者の話しによると、情報が入ってくるのは3ルートしかないそうです。北朝鮮の公式発表、中国経由の情報、南からの悪意をもった盗み撮り。今は、脱北者の話しも重視されていますが、亡命した人がその国を良く思っているはずもなく、また立場上、批判をし続けるしか生き延びるすべはないでしょう。アジアプレスの石丸さんのように直接入国して取材される方もいますが、圧倒的に露出が少ない。私は、北朝鮮を擁護した報道をすべきだと言っているわけではありません。ただ、政府レベルの発表と、はじめから批判的なフィルターを通された情報しか日本に入らない事を危惧するのです。もちろん、情報が少なすぎる責任は北朝鮮にあります。しかし、その情報のみを信じ込み、日本の現地に行った事の無い(ひどい人は北朝鮮人と話した事も無い)学者や評論家が机の上でデータを引っ張り出して「これが真実の北朝鮮の姿です」と断言する。そこに恐ろしさを感じずにいられるでしょうか。その学者の判断が正しい、間違っていると言う話しではありません。問題にしているのは、ニュース素材になるまでの安易すぎるプロセスです。この状況を作ってしまった背景を考えると、批判的な報道が正しく擁護的な報道は間違っていると思い込む視聴者にも責任の一端はあります。

 帰国して数ヶ月後、今度は韓国側から軍事境界線に行き、カメラを回しました。この両側からの取材を、CS放送朝日ニュースター」で報告させて頂くことができたのですが、当時だから可能だったのだと思います。何度も言うようですが、もちろん私は北朝鮮政府が正しいは思いません。私が番組で言いたかったのは「視点によって見え方が変わるのだ」と言う事です。しかし、この切り口は「北朝鮮批判ではない」。「批判ではない」=「擁護」と受け取る人が多く、なかなか理解を得ることができないのです。
 当時の世論は、今ほど北朝鮮に批判的ではありませんでしたが、それでも顔出しで北朝鮮を語るというのは緊張したものです。(余談ですが、うちの親は極度の保守でタカで、産經新聞が一番中立だと思っている人なので、気を使いました。。。)
 番組作りでは、特に制限をされる事はありませんでした。幸いキャスターの方が、昔、北朝鮮を長期にわたって取材した経験があり、本も出しているような方だったので、私の発言にもかなり理解をして下さり、アドバイスも頂きました。主なアドバイスは、内容ではなく「言い方」です。視聴者に批判されない「言い方」。受け入れさせる「言い方」。一例をあげると、私は「北朝鮮に訪問しました」や「訪朝したとき」と言うナレーションを入れる予定でしたが、それでは視聴者から謙っているイメージを持たれてしまう。その時点で番組全体と私を否定的なイメージで見てしまうという事でした。私としては、そんなところで意地をはって、全否定をされたら堪らないので「訪れた」や「行った」と言う表現を使いました。「共和国」がNGなのは言わずもがな。視聴者は、番組自体の内容より、言い方や表現に敏感に反応するのだと知りました。
 この番組は、番組企画自体が取材者自身の視点で報告すると言う物でしたし、番組担当者やキャスターがとても理解のある方々でしたので問題なく進みましたが、これが地上波の局が責任をもつ番組だったら、実現しなかったかもしれません。世論は「批判して当たり前」「批判ありき」なのです。フラットで客観的な視点をもって番組を放送をする必要があると局サイドが気づいたとしても、「洗脳された番組だ」とレッテルを貼られる事を極端に恐れ、萎縮し、保身に回って、必要な報道をしないのが今の状態です。

局が、勇気を出して放送したとして、レッテルを貼られた番組担当者は消えて行き、
番組は信頼を失って視聴率が落ちる。局ものちのちまで叩かれる。

そうして、中途半端な情報で批判をし続けるディレクターと番組と局が残っていく。

そうして、画一的な報道がなされ、視聴者は「やっぱりね」とつぶやく。

そうして、批判的な報道が増える。

そうして、視聴者は「やっぱりね」とつぶやく。



この膨張し続けるサイクルを断ち切るには、どうすべきなのか。

知らず知らず、誰も悪意の無いまま、私達は洗脳されているのかもしれない。

この状態に怖さを感じない人はいるだろうか。 



思うがままダラダラ書いてしまったけれど、
気づいてしまった人の責任として、私は喋りつづけたいと思う。


追加の一言
これを読んで「北朝鮮の方が画一的な報道をしてるじゃないか」と思った貴方。洗脳されてますよ(笑)



この本面白いです。
森達也著「放送禁止歌

放送禁止歌

放送禁止歌